〇基本情報
名前:トニ・ブランコ(Tony Enrique Blanco Cabrera)
経歴:海外→中日ドラゴンズ(2009-2012)→横浜DeNAベイスターズ(2013-2014)→オリックスバファローズ(2015-2016)
ポジション:一塁手
ドラフト順位:外国人

〇ドラゴンズでの活躍
落合博満監督時代
2009年、前年まで4番を務めたタイロン・ウッズが退団し、中日は新たな大砲を探していました。その中で森繁和コーチがドミニカ共和国のウインターリーグで見つけてきたのが、当時ほぼ無名だったトニ・ブランコです。契約金はわずか5万ドル、年俸30万ドルという格安助っ人でしたが、落合監督はキャンプの段階からその飛距離に惚れ込み、開幕4番に抜擢しました。
そして迎えた開幕戦、ブランコは初打席で三浦大輔投手からバックスクリーンへ叩き込む本塁打を放ち、ナゴヤドームを揺らしました。中日の外国人選手が初打席本塁打を記録したのは1990年のベニー・ディステファーノ以来であり、まさに衝撃のデビューでした。
その後も勢いは止まらず、5月7日の広島戦では前田健太投手の直球を弾き返し、高さ50メートルの天井スピーカーに直撃する推定160メートル弾を放ちました。ナゴヤドーム史上初の“認定本塁打”であり、今でも語り継がれる伝説です。
最終的にブランコは39本塁打、110打点で本塁打王と打点王の二冠を獲得しました。落合監督の下で、ウッズの穴を埋めるどころか、球界を代表するスラッガーへと成長したのです。
2010年は成績をやや落としたものの、それでも32本塁打、86打点と主軸としての役割を果たしました。特にクライマックスシリーズでは巨人戦での勝負強い打撃が光り、落合監督の信頼は揺るぎませんでした。
2011年は怪我の影響もあり出場試合が減りましたが、それでもチームはリーグ優勝を果たしました。ブランコは“勝てるチームの4番”として、落合政権の最後を支えたのです。
高木守道監督時代
2012年、高木守道監督が就任すると、チームは大きな転換期を迎えました。落合政権の「勝つための野球」から、より若手を重視する方針へと変わり、ベテランや外国人選手の立場は微妙なものになっていきました。
ブランコも例外ではなく、怪我の影響もあって出場機会が減少しました。それでも彼は限られたチャンスで結果を残し、最終的には打率.248、24本塁打、63打点と、決して悪くない成績を残しました。しかし、高木監督の構想から外れたことで、シーズン終了後に自由契約となりました。この決断は多くのファンに衝撃を与え、「なぜブランコを手放したのか」という議論が今でも続いています。
実はブランコは中日への残留を望んでいたと言われています。しかし球団は年俸面やチーム方針の変化から契約を見送り、結果的にDeNAへ移籍することになりました。その翌年、ブランコはDeNAで打率.333、41本塁打、136打点というキャリアハイの成績を残し、首位打者と打点王を獲得しました。この活躍により、ドラゴンズファンの間では「なぜ出した」という声がさらに強まることになりました。
〇引退後
引退後は母国のドミニカ共和国で物流関係の事業を展開していました。
その際の会社経営においても、日本での経験が役立っていたようです。
2025年、ブランコは母国ドミニカ共和国での事故により44歳で急逝しました。
しかし、その最期は彼らしい“仲間思い”の行動だったと言われています。
崩落事故の直前、元同僚のエステバン・ヘルマンを突き飛ばして救い、自らは命を落としたそうです。
