すべては、ここから始まった。
2004年4月2日、ナゴヤドーム対広島開幕戦。
落合博満新監督の船出となるこの試合。
開幕投手に選ばれたのは、エース川上でも大方の予想の野口茂樹でも、ベテラン山本昌でもありませんでした。
このマウンドに立ったのは、3年間ドラゴンズの一軍で一度も投げなかった男、川崎憲次郎でした。
今回は、ドラゴンズ黄金時代の開幕ともいえる落合新監督の公式戦第一戦目、先発川崎憲次郎について見ていきます。
3年間一度も投げられなかった、元ヤクルトのエース
川崎憲次郎は元々ヤクルトで投げていた投手でした。
その武器は、当時の野村克也監督から習得するように言われたシュートボール。
右打者の内角に食い込むやっかいなボールで、阪神の左腕だった遠山奬志がこのボールを武器にして、巨人の強打者・松井秀喜キラーとして活躍していたこともあります。
川崎はこのボールを武器にして、1998年に沢村賞に輝く活躍を見せました。
そして2000年のオフにFA宣言。当時はヤクルト残留かメジャー移籍のどちらかにするつもりでしたが、中日・星野仙一監督の「いっしょに巨人を倒そう」との熱い勧誘の言葉に惹かれ、中日ドラゴンズに移籍します。
ドラゴンズではエースナンバーの20番を背番号に付けました。
先発ローテーションの一角として活躍を期待された川崎でしたが、2001年のオープン戦で右上腕三頭筋の違和感を訴えて途中降板し、同月23日には長期離脱することになりました。
そのまま3年間、川崎は一軍で登板することができませんでした。
毎年2億円の年俸を川崎に支払いながらも一軍で投げられない川崎に対し、2003年には一部ファンの嫌がらせ行為としてオールスター投票で川崎を1位にするような働きかけ、通称「川崎祭」が行われました。
投票の結果、川崎は2位の阪神・井川慶を抑えてトップ当選。しかし一軍で投げられていない投手が出られるはずもなく、川崎は辞退します。
その一方で川崎には、「もし出られるのなら、出てもいいのかな」という気持ちもあったといいます。
いずれにせよ川崎の怪我は相当に悪いもので、異様に前に出っ張った右肩をどうにかしようと、リハビリにはげみつづけたまま、3年契約最終年の2004年を迎えます。
開幕投手、お前でいくから。
2004年1月2日。名古屋の道路を走っていた川崎の携帯が鳴ります。
その電話の相手は、新しく監督に就任した、落合博満でした。
「あけましておめでとう。早速だが今年の開幕投手は川崎、お前でいくから。」
電話口で早々に落合新監督は川崎にそう告げました。
川崎は最初、何を言われているのか理解が追いつきませんでしたが、本能的に一言、
「いけます!ありがとうございます!」
そう返していました。
2月1日のキャンプ紅白戦に先発し、以降10日おきに登板しながら開幕に合わせて調整していくというスケジュールでした。
この開幕先発予告について、落合監督は川崎に「他のやつには絶対言うなよ」と伝えていました。
落合はチーム内やマスコミ(親会社の中日新聞社に対してでさえも)にも開幕投手の名を明かさずにいました。
落合監督の心中には、ドラゴンズは情報が洩れる球団なのかを見極める意図ともう一つ、
「川崎でドラゴンズを変える」という志がありました。
キャンプ前、落合監督は「今年のうちのテーマは涙の復活劇だね。それに当たる選手が何人かいるから」と笑っていました。
「何としてもこの試合に勝つ」 5点差をひっくり返した開幕戦
迎えたドラゴンズ開幕戦2004年4月2日。
「ドラゴンズの先発ピッチャーは、川崎憲次郎」
この場内アナウンスに球場がどよめきました。
川崎は初回、先頭バッターにいきなり四球を与えますが、二番打者には緩いカーブを投げて併殺打。その後の打者も抑えて三人で回を締めます。
しかし川崎はもう限界でした。右肩はすでに悲鳴をあげていて、二日前から飲んていた痛み止めは効かず、投げるたびに右肩に電気を流したような痛みが走りました。
二回、早くもストレートが高めに浮き始め、5連打を浴び、気づいたら5点を失っていました。
打者11人、37球。川崎は呆然としたまま、マウンドを降りました。
しかしゲームはそこで終わりませんでした。川崎の後を継いだ遠藤政隆を筆頭にリリーフ陣が無失点でつなぐと、打線もコツコツと反撃し、7得点で相手・広島のエース黒田博樹をマウンドから引きずり下ろします。
「川崎が必死になって投げる姿があって、それに打線が応えるような展開にしなくてはいけない。」
ドラゴンズの野手コーチ陣も、「頼むな!憲次郎だから」と選手を鼓舞していたようです。
最終的にこの開幕戦は8-6でドラゴンズの逆転勝利。落合新監督の記念すべき1勝目となりました。
その後の川崎と落合監督
後年、落合監督はテレビのインタビューでこの試合についてこう述べています。
「怪我して放れてない投手、野手もそうだけど、どこかで背中を押してやらないと踏ん切りがつかない。なかなか、よしゲームいこう、って気にならない。でも日にちを区切ってやると人間なんとかなるもんなんだ。オレの中であれ川崎の引退試合だからね。ダメだったらもう使わなきゃいいんだろ、って。それをずっと5月6月7月、いつ出てくるんだいつ出てくるんだってこっちが期待してるんだったら使いづらくてしょうがないんだ。逆に」
「引退試合」という言葉通り、川崎はこの試合の後の四月末にもう一度登板しますが、一死も取れずに四失点でマウンドを降りました。
この年2004年のドラゴンズ優勝の日の翌日、川崎は監督室に呼ばれて戦力外通告を受けました。
「やめるか、他球団で続けるか。それはお前が決めることだ。」
「でも、一人で決めるなよ。必ず母ちゃんに相談しろ。」
川崎はその日、恵子夫人に「俺、やめるわ」と一言。
夫人はただ頷いてくれました。
落合に辞める旨を連絡すると、
「わかった。明日、投げろ。親、兄弟、お前が呼びたい人間を全員呼べ。」
翌日10月3日、奇しくも川崎の古巣であったヤクルト戦。
川崎は最後の登板を果たします。
古田敦也、宮本慎也と、かつてのチームメイトにストレートを投げ込み三者三振を奪い、マウンドを降りました。
それが川崎の花道となりました。
投げることが難しい川崎が必死に投げる姿を皆で見て、支える。
落合ドラゴンズの開幕戦はそのような試合でした。
この試合、5点差で相手はエースで後にレジェンド級投手と評される黒田を相手に戦い続け、ひっくり返して勝利したことが、後の負けないドラゴンズに繋がっていったようにも思えます。
