2004年のドラゴンズは、新たに落合博満監督を迎え、「既存戦力の10%の底上げ」を目標にペナントレースを戦うことになりました。
落合監督は就任の際、「自分で選手を見ていないから」という理由で、全ての選手の解雇を凍結し、新戦力も必要最小限に止めました。
今回はそんな2004年のシーズンが始まるにあたり、クビを免れたある外国人と、たった2人の新戦力を見ていきます。
アレックス・オチョア
登録名はファーストネームの「アレックス」。2003年の山田監督時代に、当時獲得予定だった大物外国人ケビン・ミラーの代わりにやってきた外国人選手です。
ファーストネームでの登録というのは珍しいですが、これには山田監督が、「登録名がオチョアじゃ、おっちょこちょいみたいだ」と意見を言ったことで、「アレックス」の登録名になったそう。
そのアレックスですが、2003年の初年度は打率.294、21本、65打点とまずまずの成績を残します。
しかしチャンスに弱いという弱点があり、助っ人外国人としての打棒は物足りないという意見がありました。
残留に消極的な意見がある中、落合監督は当然のように残留させます。
「アレックスの打撃成績は外国人としては物足りないのではないですか?」
そう訊かれた落合監督は、
「ホームランが20本打てて、なおかつ、あれだけの肩を持った外国人がどこにいるの。」
と返します。
アレックスは打撃面では物足りないと思われたかもしれませんが、それを補ってあまりあるほどの爆肩を持っていたのです。
これだけの肩を持ち、なおかつ20本も打てる外国人として、落合監督は残留させました。
アレックスは2004年、福留不在時には4番を打ち、またチャンスに弱いとされていた打撃も改善されました。
ドラゴンズ黄金期に肩で名を残す外国人となりました。
ドミンゴ・グスマン
中日での登録名は「ドミンゴ」。前年に横浜ベイスターズを自由契約になっていたところ、落合監督が獲得しました。
ドミンゴは2002年に横浜にテスト入団し、「グスマン」の登録名で先発投手として活躍します。
初年度は5勝5敗防御率2.79。まずまずの成績を修めました。
しかし2年目となる2003年はリーグ最多失点を記録し、さらに敗戦数もリーグワースト2位の12敗を記録します。
横浜での2年目の成績は8勝12敗防御率4.69でした。この成績により横浜を自由契約になります。
この負けが多い外国人を落合監督は獲得しました。
「12敗もした外国人を取るんですか?」
そう尋ねられた落合はこう返します。
「12敗もした外国人と言うけれど、私は規定投球回数をクリアして8勝できる投手と捉えている。
新人をそこまで育て上げる時間を考えたら、立派な戦力といえるんじゃないか。」
落合はドミンゴの良い面に目を向けて、獲得しました。
2004年、ドミンゴは川上憲伸、山本昌と共に先発3本柱の一角を形成。
10勝5敗防御率3.67でリーグ優勝に貢献し、その後2006年までドラゴンズでプレーしました。
川相昌弘
当時は巨人の控え選手でありながら、神がかり的なバントの技術により球界に名をはせたバント職人です。
バントの腕は確かで、バラエティー番組の企画で「サードベースにぴったり付けるようにバントをしてくれ」という課題が出されると、それを難なくこなしてしまうほどでした。
また守備もうまく、内野ならショートを中心にどこでも守れる選手でもありました。
そんな川相がなぜ巨人から獲得できたのか。
2003年の川相は当時の巨人、原監督に一軍守備・走塁コーチ就任を打診され現役引退を表明しました。
引退試合も行い、そのままコーチ就任の予定が立っていたのです。
ところが2003年のオフに原監督がクビになってしまい、コーチ就任の話はなかったこととなりました。
「それならばまだ現役でプレーしたい。」そう川相は意思表示しましたが、一度引退試合までした選手を復帰されることを、巨人球団は許しませんでした。
そこに手を差し伸べたのが、落合監督です。
落合監督は「テストをするから沖縄のキャンプ地まで来てくれ」と、川相を誘います。
川相はその言葉通りに、沖縄のキャンプ地に向かいました。
ところがテストは行われず、そのままドラゴンズに入団の運びとなりました。
「川相ほどの選手をテストする必要はない。
問題は、長年所属していた巨人を離れられるかということだけだった。
だから沖縄行の飛行機に乗ったときに、もう合格だったわけ。」
川相はそのバント技術で代打バンターとして活躍しただけでなく、試合終盤には立浪和義に代わってサードの守備固めにも起用されました。
ドラゴンズには2006年まで在籍しその後引退。2006年には球界初の「メンタルアドバイザー」にも就任しました。
引退後は中日のコーチや巨人の二軍監督を務めました。
名監督の元に名選手あり
アレックス、ドミンゴ、川相。三人はそれぞれ一度は球団から必要とされなくなった選手でした。
それでも落合監督は彼らの良さに目を向け、自身の思い描く野球の1ピースとして獲得し、活躍させました。
彼らは中日を離れた後も、他球団で必要な存在として活躍しました。
人を見る目を持つのは難しいことですが、落合監督にはその眼力がありました。
その目利きも一因として、黄金期を築き上げたのだと思います。
