〇基本情報
名前:川上憲伸(Kawakami Kenshin)
経歴:徳島商業高校(1991-1994)→明治大学(1994-1998)→中日ドラゴンズ(1998-2008)→米国リーグ(2009-2010)→中日ドラゴンズ(2012-2015)
ポジション:投手
ドラフト順位:1位(逆指名)

〇ドラゴンズでの活躍
星野仙一監督時代
星野仙一監督の政権下でドラフト1位入団しました。当時スカウトとして川上を見ていた中田宗男スカウトによると、川上は下半身主導で投げる投手だったとのことです。
入団一年目から先発ローテーションを守り、14勝を挙げ、当時坪井や高橋由伸ら有力選手がひしめく中で新人王に選出され、翌年1999年には開幕投手を務めます。
しかし1999年から2001年は病など体の不調も重なって、徐々に成績を落とします。
ただ1999年に福岡ダイエーホークスより移籍してきた武田一浩とともに、当時メジャーリーグで投げられていたカットボールを開発しました。のちに外国人野手や日米野球等で対戦したメジャーリーガー達から「日本で唯一本物のカットボールを投げる投手」と称されるようになります。
現代のカットボールはボールのやや右側(右投手の場合)を握って投げますが、川上のカットボールは逆にボールの左側を握って投げるものでした。そのため巨人の上原浩治にカットボールの投げ方を訊かれた川上が握り方を教えると、「うそつくな」と言われたそうです。
川上の代名詞ともなるカットボールに加え、切れ味の鋭いシュートと大きなカーブを武器に、先発のエース格となります。
山田久志監督時代
星野監督が去り、山田久志監督に代わった2002年。開幕こそ二軍スタートとなりましたが、開幕5戦目に早々に一軍へ昇格・登板。この年8月1日の巨人戦ではノーヒットノーランを達成するなど、2桁勝利を挙げ飛躍の年となりました。
2003年シーズンは開幕投手を務めましたが、怪我の影響もあって4勝どまりとなります。
落合博満監督時代
山田監督が去り、落合博満監督に代わった2004年。順当ならば開幕投手となる可能性がありました。しかし春季キャンプ中に落合監督は川上に「お前じゃ(開幕投手は)ないからな」と伝えます。
開幕投手に関しては箝口令が敷かれており、選手の間でも誰が開幕投手か本人以外はわからない体制が敷かれていました。山本昌や野口などの開幕投手候補も「(開幕投手は)俺じゃない」と言い合っていたといいます。
そして迎えた開幕戦。川上は自分が開幕投手ではないと思い、球場でのんびり過ごしていましたが、ドームでのアナウンスが「ピッチャー、川……」と聞こえた瞬間、「俺じゃねーか」とばかりに慌てます。
しかしよく確認してみると、電光掲示板のピッチャーの欄には「川崎」の文字が。2004年の開幕投手は、過去3年間一度も登板のない川崎憲次郎でした。
とはいえ川上はエースとして期待されており、開幕第3戦目で登板することになります。落合監督曰く、「仮に第1戦、第2戦と落としたとしても、第3戦で川上を先発させれば三連敗の可能性は低くなる」と考えていたようです。
2004年の川上は17勝を挙げ、沢村賞などのタイトルを獲得しました。同年ドラゴンズは優勝し、川上は日本シリーズ初戦と第5戦に登板、初戦こそ2失点で敗戦投手となりましたが。第5戦では8回を投げ切って勝利投手となります。
2005年は自身2年ぶりの開幕投手を務め、開幕完封勝利を挙げます。この年は前年ほどではないものの、自身4度目の2桁勝利を挙げました。
そして2006年。17勝を挙げ、チームも優勝。最多勝、最高勝率、最多奪三振などのタイトルを獲得しました。(この年セ・リーグの沢村賞は「該当なし」)
ドラゴンズではメジャーへ移籍するまでに6度の2桁勝利を挙げる活躍を見せます。
メジャーリーグ時代
2009年には米国メジャーリーグのアトランタ・ブレーブスに入団し、初年度こそ7勝を挙げますが、2010年には1勝どまりでメジャーリーグを去ることとなります。
高木・谷繁監督時代
メジャーからドラゴンズに復帰した川上はエース格の活躍を期待されますが、パッとした成績を上げることができませんでした。2013年シーズンの終わりには一度戦力外通告を受けますが、その後ドラゴンズと契約更新。2015年まで現役を続けました。
〇引退後
引退後は野球評論家として解説などを担当。CBCの「燃えドラch」で井端弘和とともに「川上井端のすべらない話」なども担当します。
また自身のYouTubeチャンネルとして、「川上憲伸 カットボールチャンネル」を配信しています。
